「笑い」の反省

 いつの頃からか人を笑わせるのが好きで、くだらない事を言っては笑わせたり、不本意ながら笑われたりしていた。この性格は父親ゆずりだったので、ゴハンどきに父と私が二人でかわるがわる会話のイニシアチブをとっていた。ところが母は割にカタい人なので滅多な事では笑ってくれず、そのおかげで私のギャグは鍛えられ、少しずつ人並みに成長していくことができた。
 根っからの名古屋っ子なので、関西風のボケツッコミは苦手である。かといって関東風のお洒落さも期待できない。タイプとしては「質より量」であり、ギャグが滑ってもめげない「デガワ」氏に似ている気がする。
 初対面、またそれに近いような人物を笑わせるのは難しい。例えばコメディアンのする話に皆が笑うのは、ただ面白いというだけでなく「この人物のする話は面白いはずだ」という認識を持っているからである。白紙状態の私が相手では、まず笑う準備もしていないだろう。私も相手が、どんなジャンルに関心があり(こういう言い方を許されれば)どんなレベルで笑う人物なのか手探りである。失敗も多いが、成功すると内心ガッツポーズ!
 なぜここまでして…と思われるだろうが、これが自然だから。私にとって。
 ネタは見聞きしたことが中心だが、最も多いのは自分の失敗談。誰を傷つける択ではないので一番安心して話せる。が、押さえ所がわからず、一番初めに話す人物の反応を見てエピソードの余計な部分を削り、または説明を付け加えたりして、一層の向上を目指す。
 家族や親戚も話に度々登場させているために、友人に名前を言いかけるだけで「あの○○市のおじさん?」と通じてしまう。基本は「笑い」であり「嗤い」でバカにする話は決してしたくない。言い訳のようだが、本心ではそう思っている。ただし仕事などの愚痴を言う際、暗い話を聞かせるだけでは相手に悪いので、笑える要素を盛り込もうと、仕事の登場人物(例えほ上司)を悪者にしてしまうことはある。言い訳かな、やっばり。
 久しぶりに仲間で集まる時など、前日から気合が入る。「これだけは話さなければ」というネタをリストアップしておくほど…。話し過ぎて、帰り道にはのどが痛くなっていることがほとんどである。
 話をすることで人が笑うと幸せだった。

 父が入院中、付添いの時はできるだけ面白い話をきかせようと、私は手帳にネタを何件も書きとめた。楽しい事がある度に。
 父が急死してしほらく後、母に言われた。「付き添っているだけで良かったんだよ。あんたが笑わせようとしてずーっと話し続けるから、聞いてたお父さんはたまに疲れていたらしいよ」
 殴られたようなショック。聞く側に負担をかけるなどという事は、想像もしなかった。
 またある時、友人が別の友人に話している言葉が聞こえてきた。「人の噂って、あんまり興味ないから、私」…どういう意味を含んでの言葉なのかわからないが、何となく私に言っているように思った。話好きイコール噂好き、と受けとめられているのだろうか。自分としては、噂を流しているつもりは全くなく、ただ人の笑顔が見たかった・笑い声か聞きたかっただけなのだ。単純に。
 特に笑いを求めていない人、またそういう状況に置かれていない人もいたのだ。というより、人間笑ってばかりはいられないのかもしれない。今までずっと、人を喜ばせているつもりでいたのが情けなくなった。
 もしかして私が一番それをわかっているべき立場だったのかもしれない。なぜなら私は他人に笑う行為だけを求め、他人に笑わせられる事は特に強くは望んでいないからだ。
 人を笑わせる事が快楽であった私は、相手は笑いたいものだとばかり、心の隅で決めつけていた。ただのわがままを通しているように思った人もいただろう。苦痛に感じた人もいたに違いない。

 でもやはり、この話し方が私にとって普通だし、それか出来なければ私ではない気がする。笑わせてナンボ、の私であり、否定されてしまったら、一体どんな内容の話をしていいのか途方に暮れてしまう。「話す自分」としての存在価値が、大げさに言えば失われるというように。
 さまざまな種類の失敗をしているにもかかわらず、成長は難しい。今日も「話そうか、やめようか?」と若干迷った上で、相手を信じてロを開こうとしている、私がいる。